新しい生活様式

新型コロナウィルスが流行って久しく、日本では第3波が来たと言われてる。

 

これに対して大阪府知事は「静かに飲食」「マスクの徹底」を呼び掛けているが、これに対して賛成意見はあるものの、もっと具体的な対策を示してほしいという人もいる。

 

私は、府知事のできることはこれが限界であり、これが正解だのだと思っている。

 

そもそも、ほぼ引きこもりニートとしては、日本各都市でロックダウンをして完全に新型コロナをなくそうという極端な政策を取ってくれたほうがありがたいとさえ思っている。そうすれば、あとは水際対策さえすれば、完全に元の生活に戻れる可能性があるからである。

 

しかし、そうしても完璧な水際対策ができない以上、それを何度も繰り返す必要があるかもしれないし、そのたびに経済をほぼほぼ止めることになるので、現実的ではないというのは言わずもがなであろう。

 

新型コロナはそれほど危険な病気ではないと主張する方もおられるだろう。特に若い人の致死率は低くそれほど危険な病気ではないのかもしれない。しかし、持病のある方、高齢者にとってはある程度危険な病気ではあるし、若い人でも後遺症が残っているという報道もある。

 

そのような状況で「インフルエンザと同じようなもの」として扱うのは、持病を持っている方、高齢者の方が一定の確率で命を落とすのは仕方がないのを許容することを意味すると思う。

 

現在、コロナ意識の高い人は、3密を避け、他人と接触する際はマスクをし、頻繁にアルコール消毒をし、これ以上何を対策すればいいの?という状態である。

 

一方、コロナ意識の低い人は、それらをある程度しながらコロナ以前の生活をしているのであろう。

 

このような現状のなかで、政府ができるのは、コロナ意識の高い人も低い人にも同じように制限をかけるために経済を止めてでも飲食店の時間制限やGoToの除外などしか手の打ちようがないのである。

 

この飲食店の時間制限やGoToの除外は経済を犠牲にしなければならないし、誰も得をしない。こんなことを繰り返しても無駄なだけである。そう吉村知事も思うから具体的対策を打ち出してないと言われようが、「静かに飲食」「マスクの徹底」と言ってるのだろう。

 

ここからは完全に私の偏見ではあるが、コロナウィルスは飛沫感染であり、空気感染するものではない。そう、飛沫及び接触感染に気を配れはそこまで怖い病気ではないのである。

 

ここで、コロナウィルスの低い人たちは、「どうせマスクしてたってかかるもんはかかるでしょ」「交通事故があるからって車乗らないの?」という。

 

私としては、前提が間違っている気がする。

まず、車を運転するには自動車免許が必要であり、最低限安全に運転できると認められた人がけが運転できる前提で成り立っている。もちろん一部の飲酒運転や無謀な運転、突然の故障などで事故が起きてしまうことはあり得るだろう。しかし、それらを極力少なくするよう、日々警察の方々が取り締まってくれている。

通常の人々が最低限のマナーを守った(道路交通法を守ることを含む)上で、そのうえでのリスクについては許容して生活しているのである。道路交通法に書かれていないが危険な運転(無理な割込みや追い越し)も実際には起きている。これが原因で事故になることもあるが、事故にならないのは、優良運転者が「かもしれない運転」を実施して、事故にならないようにしてあげているから事故が回避できているのである。

 

一方、コロナ意識の低い人たちが取っている行動は、最低限のマナーを守っていると言えるのだろうか。確かに日本の法律において、コロナ感染対策のためにマスクをしなければならない、ソーシャルディスタンシングしなければならない、などという法律はない。しかし、法律に書いていなければ個人の自由と言っていいのだろうか?最低限の感染対策をしないのは無理な割込みや追い越しをしているのと同じではないのか?

 

これは個人の自由というより完全なマナー違反であり、日本の道徳教育の低下に問題があると言ってもいいであろう

 

もし、日本人全員がこのマナーを持つことができ、全員がマスクをし、ソーシャルディスタンシングをし、頻繁にアルコール消毒をしていれば、このコロナ問題は解決するのではないだろうか

 

もちろん、交通事故と同じで、マスクやソーシャルディスタンス、アルコール消毒だけでは完全に防ぐことはできないであろう。しかし、それらの基本的な対策さえしておけば、ロックダウンはもちろん、飲食店の時間制限やGoToの制限を中止などしなくても医療崩壊を起こさないレベルで抑え込むことは容易なのではないだろうか。

 

飲食店の時間制限やGoToの制限などをすれば、とうぜん飲食店の経営者や観光業界の人たちには大打撃があり、税金が補償金として使われるかもしれないし、それもなければ倒産・廃業になり、自殺者がでるかもしれない。

その命と、感染して落とすかもしれない命との天秤を扱っているのが政府や都道府県という構図になっているが、そもそも日本人が最低限のマナーを守るだけでこんな不毛な天秤を扱わくてすむのではなかろうか?

 

マスクをするだけ、ソーシャルディスタンシングするだけ、アルコール消毒するだけ。このような誰にでもできることをするだけで、十分な対策ができるのである。

 

現在の日本の報道では、「第2波の時は若い人が夜の街で感染を広めてたが、第3波の今回は家族内感染も多く、感染原因が特定しにくい」と言われている。

 

感染を広めてる原因など、正直どうでもよい。

クラスター対策をするためには必要な分析かもしれないが、飲食店の時短営業等に踏み込まない限りはその原因などは関係なく、年代も関係ないのである。

 

家の中でまでマスクやソーシャルディスタンスできるのは、一部の医療関係者などごく一部の超コロナ意識の高いひとだけであろう。

 

我々はそこまでのことを長期間できる精神力はない。なので家族がかかってしまえば家族内感染はしてしまう前提で家族のだれもが外でかからないということを気をつけるしかないのである。

 

誰しもが24時間感染対策をしろと言われれば精神力が持つはずがない。

他人と接する際にだけ対策すればいいのである。

 

他人と一切しゃべるなとは言わない。屋外でマスクをしてしゃべってるのを文句を言う人はいない。電車では小さい声でしゃべる。その程度でいいのである。

普段マスクをしてるのに、電話がかかってきたらマスクを外して電話をする人、マスクを顎にかけてるのに、そのままコンビニに入ってくるひと、電車内でマスクをせず大声でしゃべる人、そのようなものをなくせばいいのである。

これは難しいことであろうか?十分マナーの範囲内ではなかろうか?

 

そして、これらを最低限のマナーとして道徳教育してこなかった日本の教育の問題であり、これを今から即急に解決するには、罰則を科すしかない。

 

これは果たして自由を奪う行為であろうか?私はそうは思わない。危険な運転を取り締まることと同じである。

 

小中高は通常にもどったが、大学生はまだまだオンライン授業がほとんどであり、ごく一部の実習のみがキャンパスでの対面授業だと聞く。

そして、対面での授業がないから学べないという理由で退学や停学をする人も多いと聞く。

 

大学は本来、学ぶべきところである。大学側はオンライン授業をしているが、オンラインで従来通りの授業ができているのであろうか?おそらくできておらず、仕方なくオンラインでしているのであろう。

 

こんなことはやめないか?マナーの内学生に合わせて、学びたい学生の権利を奪うのはばかげていないか?

遊びたい学生だけが休学して、学びたい学生が通常通りの授業を受ければいいのではないのか?

 

寮生にも同じことが言える。同じ寮内でともに生活をしていて寮内感染させないなど到底不可能な話である。寮内では気を使わなくていいから、寮内に絶対に持ち込ませないということに注力すべきである。

甲子園を目指したい人たちには部活をさせてあげればいい。部活を禁止するのではなく、学生に部活か遊びかどちらかを選択させ、遊びたいひとは部活禁止、部活するひとは外遊び禁止にすればよいのである。

 

日本に生きている日本人全員が最低限のマナーを守るだけで、景気に悪影響を及ぼすような必要のない対策をする必要がなくなるのである。

最低限のマナーを守らない自由のために、そのような過度な犠牲を払い続けるのが日本として正解なのか?

 

今からでも、それらの感染対策を最低限のマナーとしようではないか。

 

そして罰則を科してでも、日本人にそれが最低限のマナーとして再教育しようではないか。

 

そうすれば、我々は無意味な自粛をする必要なく最低限のマナーを守ったうえでの新しい生活様式のもと、以前とほぼほぼの部分で同じように生活ができるのである。

 

しかし、コロナ意識の低い人は、これを個人の自由を奪う行為であると主張するかもしれない。

 

憲法の第13条に下記の文言がある

「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

 

個人の自由はあくまでも公共の福祉に反しない限り認められるものである。

 

コロナ意識が低い人が主張するマスクをしない自由は、公共の福祉に反していると私は解釈している。日本が私の思考に追いつき、法律で明確にコロナ対策しないことを公共の福祉に反することと認定し、法律で罰則を作ることを期待している。